弟子屈の冬は寒いけど、朝の気持ち良さは冬が一番です。
お友達には冬に遊びにおいでよ、と言います。
冬の美しさには再現性が無いので、その儚さを分かち合うのを面白いと思うし、何より桁違いの寒さでぎゃーっとなるところを見るのが楽しい⭐️
さて。
昨夜はトレーナーミーティングでした。
開催にかかる時間を1時間限定にしてはいるものの、だからといって議事進行にキリキリするでもなく、不思議なリズムで進みます。(伸び縮みアリ)
昨日私が音読療法士とはいっても、自分のセッションで受けた方の中に何かを起こす自信が持てなくて、と悩みを打ち明けました。
太っ腹の音読療法協会は会員にはなんどでも無料で学び直す機会があります。この前、そのシステムを使ってファウンダー(調べたら創始者ですと)の水城氏のレクチャーでセッションを受けたらば、その迫力とかインパクトとか迫る感じ(あ、全部同じか)に感動したし、それは真似できんなあ、とガックリ来た部分もあったわけ。さすがファウンダー(←意味わかったから使いたがる)。
音読療法は誰かが何かをしてあげて、してもらう、という関係にはなりません。私たち音読トレーナーはお誘いをして、そこに起きること起きないことをただ受け取ります。変化や変容は内側から起こってこそパワフルであることを信じているから。
それでも、私は恐れたり、恥ずかしさを覚えるんです。
クライアントになにも、起こって、いないのでは、ないか、と。
音読トレーナーたちは、NVC(非暴力コミュニケーション)をベースにした共感的コミュニケーションをその過程で学びます。早速私の投げかけに、静かに注目をしてくれる、積極的に推察してくれる、それぞれのやり方で寄り添ってくれます。
私は音読療法の面白さである「委ねる」ことがどうにもできなかった。
なぜなら音読療法を好きになってもらいたいから。
なぜなら、私は音読療法が好きで希望を持っているから。
音読療法に触れたひとに、これを好きになってもらいたかったから。
仲間の前で、自分の内側にあるもの、全く音読療法の理念とは反するかもしれない考えなども、言葉にして目の前に並べていきます。
世界的なダンサーが自分のステージの観客を「目撃者」と呼んだという話をよく思い出すのですが、自分の中の思いを誰かに目撃されることで、「不思議な超越」としか言いようのない瞬間が私の中では起こります。
それは。
「私は音読療法の面白さである「委ねる」ことがどうにもできなかった。」
が、
「私は音読療法の面白さである「委ねる」ことがどうにもできなかった。それでも」
と含みを持ち始める、と言い換えることができるかもしれません。
それまではできない自分から一歩も動けなかったけれど、周りにあった空間に気づく、というような感覚でしょうか。
あー解決解決スッキリバンザーイ!ではなくても、持っていたものに気付くことはそれに似た爽快感が私に起こります。
そこでタイトルの「ラジオを広場に持っていく」になります。
音読療法士、音読トレーナーができるのは差し出すことだけ。そこで起きることをただ受け取るだけ。委ね切れない私ではあるけれど、それでも私はそこに近づこうとしているのを知っている。苦しいのは実に注意深く自分がどうあるかを見つめているから。
朝6時半になったら広場にラジオを持っていってラジオ体操をする。というのに似ている、と思います。よかったらご一緒に、とお誘いはするけれど、体操をして起きることは体操をするそれぞれの人のもの。
場を開いて、片付けて、を淡々と続ける。
日々揺れ動く私は、時間になると広場にラジオを持っていく。
というような非常に繊細な瞬間もありつつ、宝くじ当たった場合の山分けの相談などもありつつトレーナーミーティングは楽しく今回も閉会。めでたしめでたし。